かばん産業のおこり

 豊岡かばんとしては、明治14年、八木長衛門が大2会内国勧業博覧会に2尺3入子、3本革バンド締めの「行李鞄」を創作出品したと伝えられており、また明治35年の第5回内国勧業博覧会出典目録には遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が見られる。
 この3本革バンド締めの柳行李は、外観はトランクと同じであったが、トランクと呼ばれずに柳行李と呼ばれていた。このことは、これが従来の杞柳製品の改良品で、一般杞柳製品技術が応用されたものであり、また、柳行李で名高い豊岡で作られたことが、鞄と呼ばれず行李と呼ばれた原因と言われている。
 交通手段の発達にとまなう内外旅行者の増加により、携帯運搬用の容器の需要が起こり、それに応じるさまざまな工夫発明がなされた。明治39年、服部清三郎の「鞄型柳行李」、明治42年、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。「バスケット籠」は底編みをし、立てりを差し、引き籐を巻き上げて合い口を付けてまとめた籠と思われる。この携帯に便利な鞄型、バスケット型の小型篭の多くは輸出された。
 大正6年、革バンドやアテ革など革附属をつくって行李メーカーに販売していた奥田平治が、従来の三本革バンド締めの柳行李にウルシを塗り、錠前を取り付けた「新型鞄」を創案した。これが豊岡がかばんとして売り出した最初のものであるといわれている。
 また奥田平治の片腕ととして働いていた植村賢輔は鞄生産へ自信を持ち、まもなく皮革製品に着目した箱型鞄の製造を始めた。
 大正10年、松本孝のバスケット型柳行李鞄が出現した。信玄袋にとって代わり、「大正バスケット」の名で、実用的でハイカラな携帯用旅行具として大流行した。 さらに奥田平治は、当初は電器絶縁物などに開発されていたヴァルカナイズ・ファイバー(木綿またはパルプ繊維を硬化させた堅紙)靴滑り(中敷き)を東京で手に入れて、これを鞄の材料につかえないかと考え遠藤嘉吉郎の援助でファイバーシートを入手した。最初は柳行李の椽掛けや筆箱の製造で試し昭和3年頃、松本孝の協力を得てファイバー鞄の商品化に成功した。その後、ファイバー鞄を手がける人が増えてきた。昭和5年には、11名におよんだ。昭和9年、生産者30名、生産数月産八千個が、昭和13年には、組合員60名、月産約八万個に達し杞柳製品の全国的な販売網に乗って販売されていった。
 昭和11年に開催されたベルリンオリンピックの選手団のかばんとして、豊岡のファイバー鞄が採用されるなど、この頃には、「ファイバー鞄」が、豊岡かばんの主流を占めるようになった。しかし、満州事変以来、昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争と戦火が拡大するにつれて材料の確保が困難になり、材料の購入・販売など組合を組織して統制しなくてはならなくなった。このため、昭和16年には月産15万個に至りピークとなったが、その後減少し昭和18年には月産10万個を割るようになった。
 昭和24年には、ファイバー鞄が杞柳製品にとって代わり豊岡町の工産品生産高の第1位を占めるようになったが、昭和25、26年には、再び杞柳製品がファイバー鞄を圧倒した。これは昭和24年に創案されたラッカー吹付塗装の「サンマーケース」が大流行したことや軍用行李が警察予備隊員の衣類運搬用として使われたことによる。これも長くは続かず、原料柳の不足などにより、昭和27年には再びファイバー鞄などの鞄のう製品が優位に立ち、以後大勢は、変わらず、豊岡の主産業は、「柳行李」から「ファイバー鞄」ヘと移った。
 ファイバー鞄の時代は昭和29年頃まで続いたが、朝鮮動乱後の不況、金融引締めによる資金難などにより大打撃を受けた。業界は生産停止や操業短縮で切り抜けようとしたが、この危機を救ったのは、塩化ビニールレザーなどの新しい素材の出現であった。

行李鞄【明治14年頃】
八木長右衛門が第2回内国勧業博覧会に創作出品したものと同型。これが後の豊岡におけるかばんの源流であると言える。




パリ万国博出品【明治33年】





新型鞄【大正6年頃】
奥田平治が三本革バンド締めの柳行李に工夫と改良を加え、豊岡かばんとして売り出した最初のもの。





籐バスケット【大正10年頃】
信玄袋にとって代わり、「大正バスケット」の名で実用的で、ハイカラな携帯用旅行かばんとして大流行した。





ハートマン型ファバー鞄【昭和6年頃】
角に帯を合わせてビョウで止めた頑丈なつくり。名称はアメリカの鞄メーカー、ハートマン社に由来





サンマーケース【昭和24年頃】
ラッカー吹付塗装のスーツケース型の柳のバスケット。海水浴などのレジャーに使用。