杞柳産業のおこり

 日本における杞柳製品の発祥の歴史は、既に第11代垂仁天皇の時代の西暦前二七年頃に柳の伝来があり、さらに、九二七年に編纂された「延喜式」には、奈良正倉院の調度品の箱の部類に、柳の細枝を緯とし麻や絹糸を経として長方形または円形に編んで作った「柳筥」が完全な骨柳(昔は明治の中頃まで柳行李のことを骨柳と読んだ)として見られる。また、「大宝賦役令」(七〇三年)調雑物の内に「筺柳一把あり」と、「続日本書紀」(七二二年)にも「筺柳」「柳筥」の記述があり当時宮中の献上物として用いられたことも判る。
 菅原道真(八四三〜九〇三)の、筑紫の配所への行列の絵巻の中に牛の背に行李が見られ、また、正親町天皇時代にも、垂柳ではあるが、「絲を垂すること一丈にあまれり、此の種養父、気多に多し」とあり「京都には、六角、堀河、ことに名高きは正親町殿の別館の柳なり。これを一年天覧を賜る」とある。また「一種行李柳いうものであり、一根数茎を生し、亭々として枝なし、恰もメドキノアツマリ生きるがごとし。高きものは、7〜8尺にすぎず、短きものは、2〜3尺、土人刈りて水に浸し、皮をはぎ、これを編み、大小の器となる」と昔の人は言っている。
 このように、千有余年の歴史を有する柳行李は、つずら篭の柳で編んで作った櫃で、今のような大きな行李ではなかったが、平和時は家庭の調度品として、また外には旅行用具として用いられ旅行鞄の先祖であることがはっきりと判る。
但馬地方では、但馬開発の祖と伝えられる天日槍命によって、杞柳製造技術が伝えられたとの伝承があり、また、正倉院の「柳筥」は但馬地方から上納されたものと言われている。このように、既に豊岡でも古来より作っていたことが判る。また、一四七三年の、「応仁記」には、「九日市場」が開かれ、商品として売買されている記述があり、この時期から、おそらく地場産業として家内手工業的な杞柳産業に発展したことが予想される。杞柳製品の中で、現在のような柳行李は、森津の人・成田広吉が江戸で武家奉公しているとき門前にあった柳の木の細枝を用いて飯行李を作った経験を生かし、帰郷後、荒れ地を開いて柳を栽培し、柳行李を製造したのが最初と言われている。
柳 筥
柳 筥【奈良時代】
奈良正倉院御物として10数点が保存、但馬でつくられたと言われている。







柳の宮
柳の宮は杉森神社といって、昔は八王子権現と称し、一大社殿を有していた。明治維新後廃墟と化したのを、昭和10年再建した


飯行李

飯行李【明治初期】
ご飯を詰める小さな行李。風通しがよく飯の持ちがよい