藩の保護奨励による杞柳産業の発達

 杞柳産業の発達には、京極藩の保護奨励によるところが大きい。
1668年、京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まりである。
 その後、1726年、京極藩は3万石から1万5千石に減知となり藩財政が困窮し、その一助にと、1763年12月に「触書八カ条」を布告して、杞柳製品の専売制をはかった。それは、大阪の骨柳問屋を一軒指定して上方で専売させ、そこから上納金を納めさせる間接的統制である。1810年ごろには、大阪問屋は4軒になった。
 取引の活性化にともない、大阪問屋との間にも軋轢も生じ始めたことや、積極的に藩財政の立て直しをはかるため、1822年1月、八鹿・油屋喜右衛門と九日市上町・坪屋源左衛門の設立を許し、上方筋への直売りを禁じて、柳行李の専売制を強化した。さらに4月、骨柳師に対して、縁かけ・籐引きなどの一切の杞柳製法の秘密保持や、原材料の移出禁止を行った。この方針は、1823年12月の産物会所設立に発展していった。
 宵田町に設立されたこの産物会所は、現在の組合指導的な役割を持ち、柳行李の生産者、商人達への資金援助、原料の斡旋、製造販売指導などを行っていた。
 一方、播州印南部魚崎村網干屋与衛地2名柳行李播州陸出運送の特権を与えて、大阪までの運送にあたらせ、荷物の分散、個数の減少も防いだ。
 1829年、独自の立場で新たな市場開発を狙い、物産会所より分離した大阪登骨柳物産会所を設けた。これは藩政改革の一環として、大阪市場依存を排して全国の消費地と直結をはかったものと思われる。その後、中町の船屋良平が、骨柳引合いのため、参勤上府に従い、江戸で市場の開拓に従事したり、幕末には、大骨柳屋・飯骨柳屋・仲買・縁掛屋などの生産・販売機構も整い、全国的名声の基礎を築いた。
 明治4年頃の行李の生産高は約18万個で、その内飯行李が全体の75%を占め、次が荷行李の17%あまり、以下帳行李、文庫、上下行李の順になっていた。